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批判と上手につきあいたい

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「批判すること、されること」考:

もともと、アカデミックな批判、すなわち論文その他研究についての批判を対象に綴られた文章です。しかし、インターネット上のパブリックな空間での「批判」について考えるときにも頭に置いて損はないでしょう。
もちろん、ネットと、研究室や学会には、相当に違う部分があります。それは考え合わせながら読んでくださいな。

アカデミズムのルールに基づき建設的な「批判」がなされた場合、他者は「知見」を「批判」しているのであって、「あなた」を「批判」しているのではない。

これは学術の場での批判を前向きに受け取って強くなるためのマジックワードだと思うんだけど(学術以外にも、仕事の場とか、信頼できる友達との間のやりとりにもある程度は使えます)それに代わるものはネットでは作りうるのか否か、可能ならそれは何なのでしょうか。

ネットの場合、建設的でもないし個人攻撃もしまくり、というすさまじい「批判」でいっぱいなのは、2ちゃんねる(学術的な板ではなく、もっとポピュラーな話題の板)やmixiニュースのコメント日記を読めばわかること。そういった批判を必要に応じて受け止めたり受け流したりできる能力が身につかない限り、ネットではオープンマインドにはなれません。
少し前に話題になった「スルー力(するーりょく)」あたりが近いでしょう。ただ、必ずしもスルーするだけじゃなく、自分の栄養になるものは思い切って受け止める覚悟も必要です。(throughは前置詞や副詞であって動詞じゃないので、元々の英語からすれば変な言葉遣いにも見えますが、最近のファッション雑誌あたりの軽い日本語ではinやonのそういう用法もあるし、ありなのかもね)

実際わたしは2ちゃんねるや他所のファンサイトで叩かれなければ、自分の高慢さに気づかず、もっと上から目線な四十婆になっていただろうと思うのです。(あの事件からはもう4年以上、更に元を辿ればもう5年近く前の話になるのですね… この件を念頭において、あえて「ryota」カテゴリにもこの記事を置くことにしました)
逆にあの頃わたしがしていた批判(?)を見ていても、結構相手の「態度」だけならまだしも「その根底にある心理」までに踏み込むのは、今から考えれば人格攻撃だと言っていいことかも。
本当に批判したかったのは相手の「考え方」だけだったんですけどね。

ということで、自分が公の場でなにかを批判したくなった場合、正しい批判のマナーが守れているかどうかをチェックするのはもちろん必要なことです。わたしも心がけます。
「誰もが納得する理由があるか」「批判の対象は明確か」「代替案はあるか」

ただ、こういったマナーを、他者の批判を受け取るかどうかの基準にするか、といわれたら、これはまた別問題です。
仕事や学術の場では一般的な思考の習慣に見えても(「ネチケット」という言葉がメジャーだった時代のインターネットでもまだ常識だと言って差し支えなかったように記憶しているのですが)、現在の世間一般、あるいはネット社会一般に普及していない以上、この考え方を他人に強制することはできません。
それに、時には人格攻撃すらも成長のための栄養分にできるというのは、この5年の間にわたしも学びましたから。もちろん、普通の(ちゃんとした)批判や励ましや助言に比べたら、栄養にするためには精神に相当な負担がかかるので、他人にそれを強要してはいけませんけどね。
そのためにも先に引用したようなセルフチェックが必要になってくるのです。

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